LOGIN階段室の扉が開き、廊下の光が薄暗い階段室に漏れた。
花音はそちらへ顔を向け、目を細めた。ひとりの男が澪の前に立ちはだかった。
逆光でよく顔が見えない。
階段室の重い扉が大きな音を立てて閉じた。
光が遮られ、再び階段室は薄暗さを取り戻した。
花音は眉間に皺を寄せ、目を細めてその男を見る。どこか見覚えのある顔だった。どこで見たんだっけな。そんなことを考えているとその男は口を開いた。
「今は勤務時間です。こんなところで社員に迷惑をかけないでいただきたい」
冷たい声を吐き出した男の顔をじっくり見る。その顔に花音は目を見開いた。
先日、勤務先の歯科医院の待合室に置かれていたビジネスマガジンの表紙を飾っていた男だ。確か、名前は高宮仁。ここ数年で急成長した化粧品会社「ダーマコード」のCEOで、今注目の経営者として雑誌で取り上げられていたのだ。
しかも仁は経営手腕もさることながら、眉目秀麗な経営者として、一気に女性からの人気が出た。
そん
「澪、ごめん。今から会社に行かないといけなくなった」 仁は鞄を手に取り、出かける準備を始めた。「もしかして、Onlyé for youになにかあったの?」「ああ。SNSであらぬ噂が拡散されているらしい」 本格的な販売を前に、なぜそんなことになっているのだろうか。澪は、どのような噂が流れているのか気になった。「あたしも、一緒に行っていい?」「せっかくの誕生日なんだから、うちのごたごたに巻き込まれなくていい」 仁はまっすぐ澪の目を見つめた。澪も仁の目を見つめ返す。「Onlyé for youの企画はあたしが出したんだよ。あたしも参加する資格がある」 澪が目に力を込めて仁をじっと見つめると、仁は根負けしたように表情をゆるめた。「わかった。澪も俺たちに力を貸してくれ」「もちろん。さ、早く行こ」 澪は仁の背中を押して、玄関へと向かった。 ダーマコードに到着すると、すでに真壁の姿があった。「仁……と、朝倉さん?」 真壁は目を見開いて澪を見ていた。信じられないという顔をしている。「お疲れさまです」 澪は何食わぬ顔で会議室へと入った。「どうして、朝倉さんが……?」 真壁が恐る恐る尋ねた。澪がどう答えようかと視線をさまよわせていると、仁が声を上げた。「時間も遅いですから、始めましょうか」 仁が気を利かせてくれたのだろうか。澪の肩から、ふっと力が抜けた。 会議室には、呼び出されたらしい社員が次々と入ってきた。時計の針は十一時を回っており、どこかのデスクでは電話が鳴りっぱなしになっていた。「あ……」 そうだった。以前、真壁がグロウセオリーへ打ち合わせに来たときに落としたボールペンをバッグに入れていたんだった。「真壁さん、これ、違いますか?」
スマホを耳に隙間なく、強く押し当てる。 コール音が一度鳴った。二度目が鳴りきる前に、プツッとつながる音がした。『澪?』 仁の声が鼓膜を揺らした。それだけで体が震える。「仁? ごめんね、こんな時間に」『ああ、構わない。どうした?』 澪は唇を噛んだ。 どうしよう。こんなこと言ってもいいのだろうか。 でも、今日は誕生日だ。誕生日だから、きっと許されるはずだ。 少しの沈黙のあと、澪は口を開いた。「今、外にいるんだけど、雨が降ってきて……。迎えに来てくれる?」『ああ、わかった。どこにいるんだ?』 まさか、すぐに了承してもらえるとは思わなかった。お酒を飲んでいるかもしれないのに、それでも迎えに来てくれると言っている。胸の奥があたたかくなる。そんなことされたら、勘違いしそうだ。「じゃあ、地図の位置情報、送るね」 澪は地図アプリを開き、現在地を仁にメッセージで送った。 十五分後、仁は自分で運転してやってきた。「澪、待たせたな」 澪のそばにやってきた仁は、澪を見て顔をしかめた。「濡れてるじゃないか。なんで屋根のあるところにいなかったんだ」 仁はポケットからハンカチを取り出し、澪の頭を拭いた。「ごめん。タオル持ってきたらよかったな」「ううん。いいの」 ハンカチから、ふわりとウッディな香りが漂ってきた。いや、香りはハンカチからだけではない。体が触れ合いそうな距離にいる仁自身からも漂っている。 仁の香りだ。 その香りに包まれると、背筋が震えた。「とりあえず、車に乗ろう」 仁は澪の腕を引いて、車の助手席に乗せた。仁が運転席に座ると、澪はゆっくりと口を開いた。「今日ね、あたし、誕生日なの……」「……うん」 仁はハンドルを
有村の誘いを受けたはいいが、澪は気が進まなかった。あまりにも軽率なことをしてしまったのではないかと思う。 ほかに澪の誕生日をお祝いすると言ってくれる人はいない。有村と過ごす時間は楽しいものになるに違いない。 それなのに、澪の心は分厚い雨雲に覆い尽くされたように重かった。 ――せっかく誘ってくれたんだから、明日は楽しまないとね……。 仁からは、あの日、夕飯に誘われて以来、連絡がない。きっと澪のことよりも千華との時間を大切にしているからだろう。 もう、これ以上仁のことを考えるのはやめよう。 そう思っているのに、仁のことで頭がいっぱいだった。 次の日、午後五時から有村との打ち合わせが入っていた。有村から、「ちょっとした確認事項だけなので、一時間ほどお時間ください」と電話があり、打ち合わせをすることになった。 会議室でふたりきり。打ち合わせ開始と同時に有村が言った。「今日、この後はすぐに退社できますか?」「……あ。はい。なにも業務は入れてませんので」 有村と食事に行く約束をしていたから、元々定時で帰る予定にしていた。「よかった! じゃあ、この打ち合わせ終わったら、一緒に出ましょう。六時半にレストランを予約してるんですよ」 ぱあっと太陽のような笑顔を向けられ、澪は目を細めた。 有村の笑顔は、見ているだけで心があたたかくなる。きっと有村という人物が明るいからだろう。 もしかしたら有村は、澪と会社から予約したレストランまで一緒に行きたくて、この打ち合わせを入れたのかもしれない。 そう考えると、胸の奥が、くすぐったくなった。 直哉と付き合っていたころは、待ち合わせはいつも現地集合か、最寄りの駅前だった。 実際、打ち合わせはたいしたことなかった。前回までの確認事項の説明だけだった。 そんなこと、わざわざ顔を突き合わせて行わなくとも、メールで済ませることだってできる。それなのに、グ
実際、誕生日には特に予定がない。去年は直哉が一緒に過ごしてくれていたが、今年はそれもない。仁はきっと澪の誕生日なんて忘れているだろうから、誘っても来ないだろう。だからといって、自分から誕生日を教えるのは催促しているようで嫌だ。「今年は、ひとりで過ごす予定です。もし奈央さんが空いていたら、一緒に過ごしてもらおうかな?」 自虐風に笑いながら言うと、奈央は首を振った。「一応、その日は空けときな。なにがあるかわからないんだから」 奈央は「じゃあね」と手をひらひらさせて、オフィスに戻っていった。 澪はその後ろ姿を見送った。 ――なにもないと思うんだけど……。 手元のスマホを見つめた。仁の返事の《そうか》という言葉が、やけに沈んで見えた。 翌週の月曜日、グロウセオリーの会議室で真壁と有村と打ち合わせを行った。先行予約では好評だったが、本格販売が始まったとき、どれほどの人が購入してくれるのかはわからない。先行予約に間に合わなかった人や見逃した人、さらに市販の化粧品が肌に合わない人にも届くようにしたい。「サンプルをお渡しできたらいいんですけど、セミオーダーだから難しいですよね……」 澪が真壁に確認すると、渋い顔をされた。「そうなんですよね。処方が同じならパウチのサンプルが作れるんですけど。今回のOnlyé for youはそれぞれの肌質に合わせてセミオーダーですから……。ただ、実際に使っていただくのが一番なんですけどね」 真壁とふたりでうなり声を上げた。「先行予約をしてくださった方って、以前、Onlyéを使われていた方ですか?」 有村が口を開いた。澪が驚いて有村に顔を向けた。ホームページや広告のデザインにしか興味がないのかと思っていた。だから、有村が商品のことを聞いてくるとは思わなかった。「そうですね。ほぼ全員が既存客です」「だったらやっぱり、使ってもらわないことには新規顧客の流入は難
急いで会社に戻って、席に座る。息を整えようと大きく深呼吸をするが、うまく息ができず、苦しい。紙袋の持ち手を、すごい力で握っていたようで、ありえないほどしわくちゃになっていた。「仕事……しなくちゃ……」 本当は仁に差し入れを持っていったら、少しダーマコードで打ち合わせをして直帰する予定だった。しかし、それが叶わず会社に戻ってきたのだ。 首筋に汗がにじむ。 しわくちゃになった紙袋を、澪はデスクのいちばん下の引き出しに押し込んだ。奥のほうへ、見えなくなるまで。それから、そっと引き出しを閉めた。 ようやく、息は整ってきたものの、胸の奥に、薄い刃で切り刻まれたかのような重い痛みが走る。 何度も深呼吸をして、ようやく頭が回るようになってきた。 ダーマコードのビルの前で、仁が千華を抱きしめているように見えた。人目を憚らずにあんなことをするのだから、澪の入る隙は一ミリもないということだ。 つまり、縁談は本当にあり、資本業務提携を前提に話が進んでいるということだ。しかもふたりはもうすでに恋人同士となり、深い仲に発展している。 考えれば考えるほど、辻褄が合ってしまう。 このところ仁がグロウセオリーに顔を出さなかったことも、打ち合わせを真壁に任せきりにしていたことも、全部そういうことだったのだ。 そう考えると、苦い笑いが漏れた。 ――あたし、もう、無理じゃん……。 せっかく仁が告白してくれたのに、澪がぐずぐずしていたせいで、仁はほかの人のところに行ってしまった。直哉に受けた傷を引きずっていると伝えたとき、仁は理解してくれた。だから、ずっと澪のことだけを好きでいてくれるのだと、澪は勘違いしていた。 本当に馬鹿だ。 待っていてくれるなんて。 十七年待った人に、さらに待たせておいて、それを当たり前だと思っていた。 失うのがこわい、などと思わなければよかった。だってもう、始まる前に、仁を失ってしまったのだから。 そのとき、
忙しいのに、わざわざ仁は差し入れを持ってきてくれた。 ひと目会えただけでも、心のなかがじんわりとあたたかくなった。 ――いつももらってばっかりだから、あたしも……。 明日は取引先との打ち合わせで外出の予定がある。そのときに、仁に差し入れを買って、持っていこうかな? 急に行ったら、驚くかな?* 千華にふたりで会おうと言われたが、レストランやカフェでは誰が見ているかわからない。業界内では、婚約間近だと大きく騒がれている。自分は雑誌の取材を受けたこともあるので、顔を知っている人もいるだろう。「ふたりきりで会っていた」などとSNSで拡散されるのも面倒だ。そこで、千華の申し出は了承しつつ、会う場所はダーマコードの会議室に指定した。 約束の時間より前に、会議室に入り千華の到着を待った。蛍光灯の光が冷たく部屋を照らしている。仁は椅子に体重を預け、腕を組んで目を閉じた。 しばらくすると、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」 仁が声をかけると、ドアが開き、千華が会議室に入ってきた。まっすぐな黒髪。白いシックなワンピースが、まるでウェディングドレスのように見えた。「失礼します」 丁寧に頭を下げると、千華はまっすぐに仁と目を合わせてきた。「本日は、無理を言いまして申し訳ありません」「いえ、とんでもないです。どうぞ、おかけください」 仁の向かいに腰を下ろした千華は、背筋を伸ばし、膝の上で両手をそろえていた。仁が口火を切ろうとしたとき、千華が先に口を開いた。「高宮社長、今回の提携の条件の件でお話をしたいと思います」「はい」 仁は千華をまっすぐ見つめた。腹の奥に力を入れる。「私と高宮社長との婚姻の件ですが、私は前向きに考えたいと思っています。あなたとなら、素敵な未来が想像できるからです」 頬は少し赤らんでいるが、言葉は震えていない。「最初は祖父が勝手に進めていた話でしたから、あまり気乗